「アジアなのにキリスト教?」――フィリピンを初めて訪れる多くの日本人が驚くのが、この国の宗教事情です。フィリピンは国民の約93%がキリスト教徒で、そのうち約83%がローマカトリック教徒です。周辺のタイ、ベトナム、インドネシアが仏教やイスラム教を信仰する中、なぜフィリピンだけがキリスト教国になったのでしょうか。
日曜日の朝、街を歩けば教会に向かう家族連れの姿。ショッピングモールでは定時にお祈りのアナウンスが流れ、人々が足を止めて祈りを捧げます。フィリピンでは離婚と人工中絶が法律で禁止されており、世界でも最も厳格なカトリック国の一つです。
この記事では、フィリピンの宗教がどのように形成されたのか、カトリックが日常生活にどう影響しているのか、そして旅行や留学、ビジネスで訪れる際に知っておくべきタブーや注意点まで、詳しく解説します。フィリピン人と良好な関係を築くために、宗教への理解は欠かせません。
目次
フィリピンの宗教構成
圧倒的多数を占めるキリスト教徒
フィリピンではカトリック83%、そのほかのキリスト教10%、イスラム教5%、ほか2%となっており、国民のほとんどがカトリック系キリスト教徒です。
具体的な宗派の内訳は以下の通りです。
キリスト教(約93%)
- ローマカトリック:83%
- プロテスタント(新教):5%
- 独立教会(アグリパイ派):3%
- イグレシア・ニ・クリスト:2%
その他の宗教
- イスラム教(主にスンニ派):5%
- 仏教:1~2%
- その他(アニミズムなど):1%
アジアでキリスト教国家というのは非常に珍しく、フィリピンのほかには東ティモールくらいしかありません。
ミンダナオ島のイスラム教徒
ミンダナオ島の一部地域に限ってはイスラム教徒の割合が20%以上と高くなっています。
13世紀にイスラム教が伝えられたミンダナオ島は、16世紀にフィリピンがスペインの植民地となった際にもその統治を拒否していました。イスラム教徒は「モロ(Moro)」または「バンサモロ(Bangsa Moro:モロ民族)」と総称されます。
迫害されたイスラム教徒の一部はミンダナオ島に逃げ込みました。そのため、現在でもミンダナオ島に限ってはイスラム教徒の割合が高くなっています。
なぜフィリピンはキリスト教国になったのか
スペイン統治前の宗教
もともとフィリピンに住んでいた人々は、アニミズム(自然崇拝)を信仰していました。自然界に精霊が存在すると信じ、自然に向かってお祈りをする宗教があったとされています。
13世紀末頃からは、インドネシアからイスラム教徒の入植者が増え、フィリピンにもイスラム教が広まり始めました。
スペインによる植民地支配とキリスト教の強制
1521年にマゼランがフィリピンにやってきて、1565年にスペインによる植民地化が始まりました。この植民地化によって、フィリピンは初めて統一されました。
16世紀中頃から始まったスペインによる植民地支配が、フィリピンの宗教を決定づけました。スペインは約330年にわたってフィリピンを統治し、その間にカトリック教への改宗を強制しました。
300年間以上のスペイン植民地化を経て、今でもその影響がフィリピンでの日常生活で垣間見ることができます。フィリピン語には「asul(青色)」「bintana(窓)」「lamesa(テーブル)」など、スペイン語由来の言葉が多数残っています。
アメリカ統治時代の影響
スペイン統治の後、1898年から1945年まではアメリカの統治下に置かれました。アメリカもキリスト教国であったため、カトリックに加えてプロテスタントも広がりました。
こうして長期間のキリスト教国による統治を経て、フィリピンはアジアで唯一のキリスト教国となったのです。
カトリックが日常生活に与える影響
毎週のミサ参加
フィリピンでは多くの人が日曜日に礼拝にいくのはもちろんのこと、ショッピングモールなどでも毎日決まった時間にお祈りのため1分間アナウンスがあります。その間は、皆が動きを止めてお祈りをします。
欧米のキリスト教国でもここまで徹底している国は少なく、フィリピン人の信仰心の深さがうかがえます。
教会が果たす役割
フィリピンの街には至る所に教会があります。ショッピングモールの中でミサが開催されることもあり、教会は単なる礼拝の場ではなく、コミュニティの中心として機能しています。
結婚式や葬儀、子どもの洗礼など、人生の重要な節目は必ず教会で執り行われます。
学校教育とキリスト教
学校では、キリスト教について学ぶ授業が行われたり、授業開始時や食事の前にお祈りをするケースもあります。幼少期からキリスト教の教えが生活に根付いています。
祝日とキリスト教
国民の90%以上がキリスト教徒であり、キリスト教に関係する休日が多く、中でもクリスマスはフィリピン最大の祭日です。
主なキリスト教関連の祝日:
- 諸聖人の日(11月1日)
- クリスマス(12月25日)
- ホーリーウィーク(イースター前の木曜~土曜)
- イースター(復活祭)
特にクリスマスは「世界で一番クリスマスが長い国」と呼ばれるほどで、9月からカウントダウンが始まり、クリスマスソングが流れ始めます。
カトリック教義が生む独自の法律と社会
世界で2カ国のみの離婚禁止国
フィリピンでは一度結婚すると、絶対に離婚できません。なぜなら「離婚」という制度そのものが、はじめからフィリピンにないからです。
カトリック信者が多数を占めるフィリピンは、バチカン以外で離婚を禁じている世界で唯一の国です。以前はマルタ共和国も離婚を禁止していましたが、2011年に合法化され、現在は本当にフィリピンとバチカンの2カ国のみです。
アナルメント(婚姻無効)という代替制度
離婚はできませんが、「アナルメント(Annulment)」という制度があります。これは婚姻そのものを最初からなかったことにする裁判上の手続きです。
ただし、手続きには以下のような課題があります:
- 裁判所での手続きが必要
- 判決まで2~3年かかる
- 高額な費用(数十万~数百万円)
- 富裕層しか利用できない実態
人工中絶の全面禁止
フィリピンでは、カトリック教会の教えのままに、人工中絶が法律で禁止されています。憲法の定めのもと一切の例外なく、中絶は違法行為とされています。
中絶は犯罪であり、最高6年の禁固刑が科されます。このため違法な中絶が行われ、その合併症で約1,000人の女性が死亡しているとされています。
レイプによる妊娠や、母体に危険が及ぶ場合でも、原則として中絶は認められません。これは世界的に見ても極めて厳格な規制です。
避妊に対する厳しい姿勢
カトリックでは「結婚(子作り)とは神創造への協力」と考えられており、避妊も好ましくないとされています。
以前は、薬局に行けば避妊具は売られていますが、カウンターのなかに置かれているのが普通でした。カトリック教会の圧力を恐れて、薬局では自主的に避妊具を直接手に取れる場所には置かないようにしていたのです。
フィリピンでは、学校で避妊についての教育が行われることもありません。カトリック教会が政治的な圧力を加えているためです。
近年は政府主導で避妊具の配布などが進められていますが、依然として避妊に対する抵抗感は強く残っています。
社会への影響
これらの法律と文化が、フィリピン社会に様々な影響を与えています。
シングルマザーの多さ
世界保健機関(WHO)の研究報告によると、フィリピンには約1500万人のひとり親がおり、そのうちの95%が女性とされています。
離婚ができないため、結婚にリスクを感じて事実婚を選ぶカップルが増えています。また、人工中絶ができないため、望まない妊娠でも出産せざるを得ません。
非嫡出子の多さ
2017年に登録された出生総数の53.3%、907,061人が非嫡出子でした。
人口増加
避妊と中絶を力で抑えることで、フィリピンの人口は増加の一途をたどり、この40年間で3倍にもなっています。
離婚合法化への動き
2014年12月に民間調査機関が、離婚合法化に賛成か反対かを調べたデータが発表されています。それによると賛成が60%を超えています。
世論は離婚合法化を支持していますが、カトリック教会の強い反対により、法制化は進んでいません。2018年と2019年には離婚合法化法案が代議院で可決されましたが、元老院で否決されています。
ミンダナオ島の紛争とイスラム教徒
50年続いた紛争の歴史
第2次世界大戦後、フィリピン最大の島であるルソン島などから多くのキリスト教徒が入植し支配を始めると、対立が発生。イスラム教徒側から分離独立を求める声が強くなり、1970年にはモロ民族解放戦線(MNLF)がフィリピン政府を相手に武力闘争を始めます。以来、長い戦いが続き、10万人以上が命を落としました。
1970~80年代、イスラム教徒中心のモロ民族解放戦線(MNLF)が南部の分離独立(のちに自治権)を求め、政府軍との間で武力紛争を展開したことは、よく知られています。
和平への道のり
1996年にMNLFと政府が和平合意を締結しましたが、MNLFから分離したモロ・イスラム解放戦線(MILF)との武力闘争が続きました。
2019年2月22日、ついにバンサモロ暫定自治政府が誕生し、和平への大きな一歩を踏み出しました。日本のJICAも、この和平プロセスに深く関与し、人材育成や開発支援を行ってきました。
現在の状況
2017年5月、ミンダナオ島マラウィ市で、IS(イスラム国)関連の武装勢力による占拠事件が発生し、5ヶ月間の戦闘の末に政府軍が制圧しました。この戦闘で市街地は完全に破壊され、35万人以上が避難を余儀なくされました。
現在も一部地域では治安上の懸念が残っており、外務省は渡航制限を出しています。
フィリピン旅行・留学時の注意点とタブー
宗教に関する発言のタブー
絶対に避けるべきこと
宗教や信仰を否定・批判する発言
宗教はフィリピン人のアイデンティティの根幹です。「カトリックは古い」「離婚や中絶を禁止するのはおかしい」などの発言は絶対に避けましょう。
離婚・中絶・避妊に関する否定的な話題
自分が離婚経験者であることを話す程度なら問題ありませんが、フィリピンの制度を批判したり、「離婚できないなんておかしい」などと言うのは厳禁です。
教会や聖職者への無礼な態度
教会は神聖な場所です。観光で訪れる際も、敬意を持った態度で臨みましょう。
日曜日と宗教行事への配慮
日曜日の過ごし方
多くのフィリピン人にとって、日曜日は教会に行く日です。ビジネスの約束や重要な用事は、可能な限り日曜日を避けましょう。
宗教的祝日の理解
クリスマスやホーリーウィークなど、重要な宗教行事の期間は、多くの店舗や施設が休業します。旅行の計画を立てる際は、これらの時期を考慮に入れましょう。
教会訪問時のマナー
服装
- 肩と膝が隠れる服装が基本
- タンクトップ、短パン、ミニスカートは避ける
- サンダルよりも靴が望ましい
行動
- 静かに行動する
- ミサ中は携帯電話の電源を切る
- 写真撮影は許可された場所のみ
- 献金は強制ではないが、少額でも寄付するのが礼儀
ビジネスシーンでの配慮
採用・人事面での注意
フィリピン人を雇用する日本企業が増えていますが、宗教への配慮が必要です。
- 日曜日の礼拝への配慮
- 宗教的祝日の休暇
- 食事会での豚肉料理の配慮(イスラム教徒の場合)
コミュニケーションでの注意
人前で叱責したり、大声で怒鳴ることは、日本以上にタブーです。フィリピン人は特に人前での叱責を嫌い、恨みを買う可能性があります。
恋愛・結婚における注意点
離婚ができないという現実
フィリピン人女性と真剣な交際を考える場合、離婚の問題は避けて通れません。日本で結婚すれば日本の法律で離婚できますが、フィリピン人にとって離婚は依然として大きなタブーです。
家族の重要性
カトリックでは家族の絆を非常に重視します。交際相手の家族との関係も、日本以上に重要になります。
避妊への態度
真剣な交際相手であっても、避妊に抵抗を示す女性は少なくありません。文化の違いを理解し、尊重する姿勢が大切です。
訪れるべき美しい教会
フィリピンには、スペイン統治時代から続く歴史的な教会が数多くあります。
マニラ大聖堂(Manila Cathedral)
マニラで最も格式高い大聖堂。16世紀に建設され、何度も再建されてきた歴史があります。荘厳な内装と美しいステンドグラスが見どころです。
サン・アグスチン教会(San Agustin Church, Manila)
1607年に完成した、フィリピン最古の石造教会の一つ。ユネスコ世界遺産に登録されています。バロック様式の美しい建築が特徴です。
サントニーニョ教会(Basilica Minore del Santo Niño, Cebu)
セブで最も古い教会の一つ。1565年に建設され、フィリピンで最も崇敬される聖像「サントニーニョ(幼きイエス像)」が安置されています。
シマラ教会(Simala Parish Church, Cebu)
セブ島南部にある比較的新しい教会ですが、お城のような外観と奇跡の逸話で人気の巡礼地となっています。
キアポ教会(Quiapo Church, Manila)
「黒いナザレ」の像で有名な教会。毎年1月9日の祭りには数百万人の信者が集まります。
まとめ
フィリピンの宗教、特にカトリック信仰は、この国を理解する上で最も重要な鍵です。
押さえておくべきポイント
- フィリピンは国民の93%がキリスト教徒、83%がカトリック教徒
- 約330年のスペイン統治によりキリスト教が浸透
- 離婚・中絶が法律で禁止されている世界でも稀な国
- ミンダナオ島にはイスラム教徒が多く、歴史的な紛争がある
- 日常生活のあらゆる場面で宗教が影響を与えている
旅行者・ビジネスパーソンへのアドバイス
- 宗教への敬意を忘れず、批判的な発言は避ける
- 離婚・中絶・避妊の話題は慎重に
- 日曜日と宗教的祝日への配慮
- 教会訪問時は適切な服装とマナーを
- フィリピン人の信仰心の深さを理解し、尊重する
日本人にとっては理解しにくい面もあるかもしれませんが、宗教を尊重し理解しようとする姿勢が、フィリピン人との良好な関係構築につながります。
美しい教会、温かい人々、そして深い信仰心。フィリピンの宗教文化を理解することで、この国の魅力がより深く見えてくるはずです。